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Channel: 美容外科開業医の独り言
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化粧と肌:歴史的考察

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今回は化粧の話です。
日本人の化粧の歴史はというのは、縄文時代の土偶に化粧が施されていたり、文献的には魏志倭人伝でも記載があり、大昔過ぎるため、もっとも一般化した江戸時代から考えていきます。
江戸時代の化粧というのは、ご存じのように上流階級では細かい決め事があり、それは庶民にも及んでいたとされています。
ただ、その種類はと言うと、もちろん西洋式ではなく、白粉です(頬紅や口紅、お歯黒もあります)。特に髪型を含めた外観の流行というのは吉原の遊女や歌舞伎役者から始まることも多く、化粧もその一つです。歌舞伎役者は化粧の店(音羽屋白粉など)を開いていたりしたそうで、今で言う芸能人のお店みたいなものですね。浮世絵などで遊女の絵が描かれると、その髪型などは一つのブームとなったり、自由・斬新であるがゆえに庶民に受け入れられたようです。
その江戸時代、白粉をはたき、頬紅を入れたり、目元にも紅をつけたりするなど、顔全体に施すことが多くなったようで、個人的にはこれこそ日本人がフルメイクを好む源流ではないかと思っています。欧米ではポイントメイクだけで化粧する人も多いのに、日本人は顔の毛を剃り、全体にファンデーションを塗り、さらにはアイメイク、チークもしっかりとする傾向にあります。これは白粉を塗るという習慣からなのかもしれません。もちろん世界中で色が白い方が好まれてはいたようですが、日本では江戸時代に庶民にまでメイクが一般化したことでこの風潮が強くなったのではないでしょうか。
あと面白い話として江戸時代から関西の女性の方が化粧が濃かったそうです。。。。

さて、その白粉ですが、成分には水銀や鉛が使用されていたものが多かったようです。特に鉛は中毒症状を起こしたりと、問題があったと書かれています。

白粉は明治になっても化粧の主流であり、1910年代にファンデーションが開発されてからもしばらくは使われ続けていたわけです。

西洋式のメイクが主となったのは戦後しばらくしてからですし、それまでは化粧を落とす作業はそんなに大変ではなかったと思います。西洋式の落ちないメイクとそれに伴うクレンジングの開発が肌に負荷をかけ始めたというのは間違いないでしょう。

「日本人女性総敏感肌時代」の始まりです。
昔のような洗顔クリーム(コールドクリーム)などでは肌の保護作用などもありましたが、落ちにくい化粧を取るクレンジングは、やはり肌を傷めるのです。本来肌が保つべき油分、脂質も全て取り去った上に、角質上層にクレンジングが入り込み、肌を刺激します。

もちろん「化粧をしない、洗顔しない」のが肌にとって一番です。
そうすれば基礎化粧も不要になります。アフリカの乾燥地帯の「水にも困っているような」土地の女性は、化粧水や乳液を一生懸命つけているでしょうか?ひどい乾燥地帯でも、本来人の肌は耐えられるのです。高温多湿の日本で、なぜ念入りな保湿をしないと肌が傷んでしまうのでしょうか?
答えは簡単です。
しかし現実には、美容的には最悪ですし、ずっと洗顔して基礎化粧をしてきた人がいきなり止めたら、因幡の白ウサギ状態。肌はバリバリになります。
少しずつ肌をいたわりながら、そして徐々に丈夫に強くしていくことも重要です。
「動物の皮膚たる」革製品のように、油を補給してあげるのがケアには良いとされています。
実際にはできる人は多くはありません。

このように理屈と現実は大きな隔たりがあります。ただ一つ言えることは、最近のいき過ぎた「落ちないメイク」「簡単にメイクが落ちるクレンジング」は宜しくなく、それゆえ美容的な保湿効果のあるクレンジングも登場してきていますが、ある意味、コールドクリームに近づいていくのかもしれません。
化粧をする以上は落とさなければ、それでも肌を保護しなければ。
つまり(脂分を)取ったら(基礎化粧品を)つける、しかないと思います。


*以上は個人の意見です。あくまで参考にとどめて下さい。



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